文昌帝君 拝んで合格祈願し智慧開く
文昌帝君は恐らく学びの過程において誰もが知ることになる神様です。文昌帝君は人々の智慧が冴え、試験などの関門を突破でるよう手助けをしてくれます。試験を受ける前は必ず受験票を持って参拝しにいく神様です。この神様の特徴は2人の人物が合体してなった神様であり、1人は蜀王・張育であり、もう一人は梓潼神(しどうしん)「亜子」と言われています。しかし、人々は実は張育が梓潼神(しどうしん)「亜子」の生まれ変わりであるのではないかと思っていることから、両者が同一人物だとしてもいいように、「張亜子」と呼んでいます。きっと皆さんの中にはきっと、学問と功名を願うのであれば、孔子の方がいいのでは?と好奇心に駆られたかたもいらっしゃるのではないでしょうか。実際のところ、これは中国の南北地域の違いが主因であり、南方の人々にとって文昌帝君の方が北方の孔子よりも馴染みが深かったからで、「北は孔子、南は文昌」といわれるほどです。
東晋寧康二年(西暦374年)、蜀の人に張育という者がいました。彼は自身を蜀国の王と定め、兵を率いて、北方の強敵、秦国の苻堅を撃退しようとしましたが、最後に戦死してしまいました。蜀の人々は彼を郷土を守った英雄とたたえ、梓潼七曲山に張育の祠を建て、雷澤龍王としました。
当時、梓潼七曲山には梓潼神亜子の祠がありました。言い伝えによると、張亜子の別名は「堊子」または「悪子」といい、《十六国春秋輯補・後秦録》には後秦黄帝姚萇が即位する前、梓潼七曲山に行ったところ、神仙に出会い、ゆくゆくは秦の地一帯を手にすると言われたそうです。この自称張悪子と名乗る神仙は張亜子だったとされています。姚萇が後秦皇帝として即位してから、この神仙を記念し、秦の地に「張相公廟」を建て、張亜子を祀ったと言うことです。
唐朝に入り、張亜子の伝説はあちこちで流れていました。唐玄宗は安史の乱が起きた際、蜀の地へ来た時、夢で張亜子から世を治める者として引き継ぐことになるだろうと言われたと言います。そして、安史の乱後まもなくして、唐蕭宗が即位し、唐玄宗は太上皇となりました。これにより、唐玄宗は張亜子を盛大にお祀り行事を行い、追って彼を「左丞相」の称号を追って授けました。唐僖宗もまた黄巣の乱から逃れるため蜀の地を訪れた際、自ら梓潼神を拝み、張亜子を濟順王の称号を追って授けました。唐朝の皇帝たちがこぞって張亜子を崇拝したことから、張亜子の影響力は次第に大きくなり、やがて民間の間でも神として拝まれるようになりました。
科挙制度が始まると、国内各地の受験生たちは都で受験をする前に、自分の故郷で祀られている神々に試験が順調に進み、合格できるよう祈願していましたが、多くの神々の中で梓潼神が比較的叶いやすいといわれ始め、すんなりとそのことが全国に知れ渡ったことから、受験生が必ず受験前に祈願しにいく神さまとなりました。やがて中国の人々の伝統の中で文学を司る文昌星と合わさり、文昌星の化身と見なされるようになりました。
元仁宗延祐三年(西暦1316年)になって、張亜子を正式に「輔元開化文昌司祿宏仁帝君」としました。それから、張亜子と梓潼神は文昌星への信仰と合わさり、「文昌帝君」となりました。文昌帝君は過去に17回生まれ変わり、官職に就き、人々が抱える困難を解決し、清く誠実な官僚であったと言われています。そして、天帝より科挙や俸禄制など多くの制度を管理するよう命ぜられました。
参拝方法
①お供え物には赤紙を張ります。
②受験票と使用する文具(鉛筆や消しゴムなど)及び当日着用する衣服をお供え物と共にテーブルの上に置き、参拝します。
③蝋燭に火を点けます。
④神前へ行き、お茶、お酒を供えます。
⑤お線香に火を点け、神を迎え(お線香は1本または3本)、お守りくださるよう祈願します(廟での参拝時は先に天公炉でお線香を上げ、天に向かって拝みましょう)。
⑥お線香の1/3が燃えたら、両手で金紙を持ち三拝(3回拝む)してから、燃やします。
⑦燃やし終わったら、受験票とそのほかの持ち物や身に着けるものを3回炉にくぐらせます。
注意事項
①お供え物を調理する際、お団子や卵類は使わないこと。受験生が0点をとってくるのを防ぐため。
②牛肉は食べてはいけません。受験生の多くは牛肉を食べません。なぜでしょうか?それは文昌帝君が座っているのは牛の上だからです。もしその牛を食べてしまったら、文昌帝君が受験会場来れなくなり、手伝ってもらえなくなってしまうからです。